2018年9月9日日曜日

第五話 リスクとはなにか



「リスクとは…。」
清水教授は、今度は薄すぎるコーヒーマグを片手にホワイトボードに向かい立ちあがりました。

「安全か、危険かという考えかたとは少しちがって、どの程度までの危害の大きさを許容できるか、ということなんです。
いいですか、命を落とすような状態と指先に少しすり傷ができるようなものとが、どちらも同じ危険とひとくくりにしてしまうことには、無理がありますよね。」

清水教授はマグカップを持ったまま苦労してペンのキャップを取ると、ホワイトボードに大きくハートとだ円を描きました。
どうやら、命と指を表わしているようです。

そのとき、マグカップからコーヒーがどぼどぼと床に落ちました。
ちら、とそれを見たものの、なにごともなかったかのように話を続けます。

「そこで、その違いをリスクという概念でもって、重みづけをするわけです。」
ハートに100を、指に1を書きこみました。

「実は、リスクには0はありません。
ですから、この、100をかぎりなく許容できるレベルにするための試みを私たちは日夜行っているわけです。
したがって、安全とは、許容できないリスクのないこと(・・・・・・・・・・・)、となりますね。」

また、ドカッと座ります。

「じゃ、安全というのは危険ではないことではない、ってことですね。」
と拓人。

「そして、指先の小さなけがのようなものは許容できるものであり、命を落とすような重大なものは許容できないものって分けることが、リスクの考えかたってことですか?」

「まったくそのとおりです。君はなかなか優秀ですね。」

清水教授にほめられた拓人は、少し照れているようです。

好菜はメモを取り続けています。

「じゃあ、どうやってリスクを許容できるレベルまで低減するのでしょうか。
私の専門分野である機械安全の分野では、リスクを低減するには3つの方法があって、優先順位が決まっています。
まず、最初にすべきことは本質安全です。
たとえば、机のかどがとがっていると、さわったときにけがをする可能性がありますよね。」

「そんな時、君だったらどうする?」
と、清水教授が拓人にたずねます。

拓人は答えます。
「かどにカバーをつければいいんですよ。」

「ぶっぶー!」

清水教授、大きな声で言いました。
3人は再び、びくっ!とします。

「カバーをつけるというのは、実は本質安全ではないんです。」
大きく息を吸い、
「正解は、本質安全的正解は、机のかどを丸くつくる、でしたー!」

好菜、
「そっかあ!丸くしちゃえば、カバーもいらないですもんね。」

「そのとおり。
では、机が金属だったりして、けずれない場合はどうすればいい?」
清水教授、ペンで大野教授をさします。

「えっ!・・・わたし?」
まさか、指されるなんて、と大野教授とまどいます。

かろうじて、
「そうだなあえっと、机を買いかえる、とか。
そりゃ、ないか、ははは。」

「そういう場合は、机のかどに人が近づけないようにすればいいのですよ。
つまり、ここでカバーが出てくるわけです。
これが二番目のリスク低減方策、安全防護(・・・・)です。」

「つぎっ!
では、カバーもできなかったり、カバーがすりへってまたとがったところがでてきたり、カバーがはずれやすかったりした場合はどうだろう?
はい、そこ!」
清水教授は、興奮するとやや粗暴になるようです。

好菜がおずおずと答えます。
「カバーをもっといいものにするとか、カバーを一定期間で交換するとか、かな。」

「はい、半分あたり。リスク低減方策では、ベストな方法がとられていることが前提だからもっといいカバーがあればその、カバーを適用することになります。
一定期間で交換というのは正解。
いつ交換すればいいのかを、カバーをつくった企業がユーザー、すなわち机を使うがわに教えればいい。
あるいは、カバーの近くに“3か月で交換することとシールを貼っておけばいい。
これが、三番目、情報の提供であります!
この3つは、スリーステップメソッドといわれるものです。

コーヒーをぐびりと飲みます。
「なので、設備的な対策をなんら取らずに、危ないところをマニュアルに全部書いたからといってそれを、ユーザーに渡しただけ、っていうのはルール違反なんだ!」

「機械安全のベースとなる考え方は、人はミスをする、機械は故障する、というのが前提だ。
だから、人にたよる安全対策である情報提供が最後!」

みんな、納得して大きくうなずいています。
清水教授、そんなようすをぐるりと見まわすと、ちょっと落ち着いたようで、静かに話だします。

「人はね、まちがったり、わざとだったり、いろいろですが、まあ、ミスするいきものなんですよ。
ですからね、危険源にちかづかないようにする、ちかづいたら機械自体がとまる、というふうに機械側で制御するようにしてやれば、より安全な状態に近づくわけです。」

「なるほど、環境側から人の行動をかえるわけですね。
行動分析学とまったく同じ考え方です。」
ここで、大野教授が発言します。

「人の行動を変える?
いやいや、人の行動をかえるなんてむりですよ。
だから、われわれは機械に安全装置をとりつけて、人が危険側に行動したときに機械自体をとめてしまうのです。」

「いや、人の行動は変えられますよ。
行動をかえるというより、環境をかえることによって結果的に行動がかわるんですけどね。」
と、大野教授。

「いやいやいや、大野先生、人なんて信用ならない。
だから、われわれ機械安全の専門家はハード面、つまり機械での制御を徹底しようと苦労しているんですよ。」

「ですからね、機械を使って作業するその人自身の行動が改善されれば、さらに作業現場が安全なものになるのではないかと思うしだいでして。」

「そりゃ、改善されたかどうか確かめるすべがあれば、の話ですよね。
今のところ、そのような手段がないので、われわれは機械の安全装置にたよるしかないんですよ、残念なことに。」

「え?改善されたかどうか、確かめる方法がないとおっしゃいますか?」

「大野先生、ひょっとしてそんな方法があるとおっしゃっているのでしょうか。」

「ええ、おっしゃっています。」

「どうやって?どうやって確かめるんです?」
清水教授は、大きな体を前にずいっとのりだします。

好菜は、少しあせります。
(ケンカ、しているわけじゃないよね?
お二人とも少々興奮してるけど、なんだかとても楽しそうだし

大野教授、こほん、と咳ばらいします。
「安全装置を導入する前と導入したあとの安全行動と不安全行動を数えればいいんです。」

清水教授は、大野教授を穴のあくほど見つめています。
そして、また、どぼどぼとコーヒーを床にこぼします。
「行動を、数える?」

大野教授、にっこり笑ってくりかえします。
「ええ、行動を数えるんです。
行動は、数えることができるんです。」

コーヒーはどぼどぼとこぼれっぱなしです。
ニコニコしている大野教授を、じっと見つめる清水教授。

さて、どうなることやら


2017年10月3日火曜日

第四話 機械安全の大家、清水尚憲(しみずなおのり)教授も登場

「循環論か…。たしかに。答えになってない」
馬場拓人(ばば・たくと)は、コーヒーをぐびぐびと飲みほしました(にがくないのか???)

「拓人!いい案があるぞ!」
またしても、大野浩二(おおの・こうじ)教授、ひざをたたいてたちあがりました。

「波理洲(ばりす)大には工学部もあって、そこに機械システム安全研究科がある。
そこの教授なら説明してくれるかもしれない。循環論じゃない不安全行動を!」

「それだ!おじさん、そこにつれていって。
知り合いの教授から話を聞くことができるかな?」

「まかせなさい!よし、さっそくアポとってみよう」
大野教授、さっそうと電話にむかいます。

ところが電話がはじまってみると・・・。
しりあいがいると豪語していた大野教授ですが、どうも実際はちがうみたいです。
ごもごもと小さい声で、はじめまして、という声や、自己紹介などが聞こえてきました。

好菜(すきな)も拓人も、そこはそしらぬふりをよそおって、なりゆきを見守っています。

ついに、電話をおいた大野教授、うってかわって自信満々のようすです。

「私の親友、清水尚憲(しみず・なおのり)教授がみなさんに会っていいとおっしゃっている。
お時間は大丈夫かね?」

「も、もちろんです、大野教授」
好菜、ためらわず答えます。
拓人もつっこみはしないようです。
…S?SAS(えす・さす)のためだ。

3人は波理洲大工学部機械システム安全研究科をめざして歩きだしました。
めざして歩きだす、なんてずいぶんおおげさとおっしゃるかもしれませんが、おなじ大学とはいえ、ひろい敷地が必要な工学部キャンパスは、大野教授のいるメインキャンパスから歩いて15分ほどかかります。

機械システム安全棟は、工学部キャンパスの中央部にどーんとそびえていました。
ドアをあけると、すぐ左に6名ほどの教員の所在表があり清水教授は白ふだです。

(ってことは、赤ふだは不在なのね)

右はトイレで、正面にもうひとつドアがありました。
「ここみたいです、火気責任者に清水教授のおなまえがありますから」

(それにしても大きなドアだな。鉄扉だし…)

好菜がドアノブに手をのばしたまさにその時、目のまえのドアがいきおいよくひらいて、大男がとびだしてきました。
あやうくドアにぶつかりそうになった好菜が2歩ほどうしろにとびのくと、おもいきり拓人の足をふんでしまいました。

「いてっ!」

その声に、大男が気づき、立ちどまります。
「あっ!すいません!大丈夫ですか?」

そういいながらも、大男はふたたび足早にその場をさり、トイレにかけこんでいきました。

(え?いまのひと、清水教授?)
あっけにとられた3人は、そこでかたまります。

約1分後、男は鼻歌まじりでトイレからでてきました。
そして、3人がまだそこにいるのを不思議そうにながめ、ふたたび鉄扉のむこうに消えようとドアをあけます。

「あのっ!清水教授でいらっしゃいますか?」
好菜がおもいきって声をかけると、

「はい、そうですが?」
と、ニコニコと笑顔になります。

すると、大野教授が
「さきほど、お電話でお話いたしました、心理学科の大野でございます」
というと、

ようやく思いいたったようすで清水教授は背すじをのばします。
「あっ、これはこれは。失礼しました。大野先生、さきほどからお待ちしておりました」
がっ、大きな体を90度曲げ、体育会系のおじぎであいさつします。

「お待ちして、って」と、背後で拓人の小声のつっこみがきこえましたが、かまわず好菜は、
「おいそがしいところ、すいません。お話をすこしうかがってもよろしいでしょうか」
と、きりだしました。

清水教授は、かわらずニコニコと、
「もちろんです!そのためお待ちしていたんですから。
あなたがたが、ばば高校の生徒さんたちですか?」

さらにつっこもうとする拓人のわき腹をひじでどつきながら、
「はい!私たちが亜場(あば)高校2年生の、原須好菜(はらす・すきな)と、こちらが馬場拓人です」
二人で頭をさげます。

「亜場高校の馬場さん、ですか」
なにがおかしいのかくすくすわらいながら、ドアをあけ、清水教授は手まねきします。
「どうぞどうぞ、こちらへ」

部屋にはいった一同、てっきり研究室だとおもっていたそこが広大な空間であることにおどろきました。

大きな鉄の柱にかこまれ、10メートル以上あるかとおもわれる高さに天井走行クレーンがさがっています。
さらに8メートルほどの高さには四面にぐるりと手すりのついた作業現場によくある通路、キャットウォークが取りつけてありました。

床面も、奥行き幅ともに10メートル以上はあるようです。
そこに、電動式のミキサー、スライサー、プレス機などが雑然と配置され、おどろいたことに左奥には、介護用機器とおもわれる電動式風呂もあります。

(すっごーい!)

おどろく3人をあとに、清水教授は部屋の3分の1ほどすすんだところで、左に直角にまがり、すたすたと歩いていきます。
そしてさらに左に直角にまがり、つきあたりのドアをあけました。

ニコニコと3人をまねきます。
「どうぞどうぞ!」

はいると、そこがどうやら清水教授の研究室のようです。

奥が、パソコンなどがおいてある作業スペースのようですが、白板が視界をさえぎり、みることはできません。
そしてなぜか、研究室内にもホイストクレーンがさがっていました。

白板手前のテーブルに3人をすわらせ、清水教授は白板に背をむけてこしかけました。

あいかわらずニコニコしています。
「私に聞きたいこととは、なんでしょうか」

好菜が先刻はなした内容を、要領よく大野教授がかいつまんではなしだします。
「この子たち、高校の自主活動委員会で生徒の不安全な行動を防ぐ活動をはじめるらしいのですが、そもそも不安全行動、いやそのまえに安全とはなんなのかを…」

「安全とは!」
と、突然、大声をはなち、清水教授がガタン!と立ちあがりました。
びくっ!とする3人。

白板に向かうとシュポン、とペンのキャップを取ると、
比較的きたない字で、安全、と書きなぐりました。

「かつて“安全”とは、危険源を作業スペースからあらいだし、それ以外が安全と、いわれていました」

しかしね、
と清水教授はつづけます。

「危険源を100パーセント洗いだすなんてむりなんです。
でも、洗いだした危険源以外を安全とすると、洗いだしきれなかった危険源も安全だということになってしまうのです」

この、私の著書*2を読んでいただくと…、と結構なサイズの本を二冊かたかけポーチの中から取り出しました。
(えっ!いつも持ち歩いている?…そして話が止まらない)

「ちょっと待ってください。これを…」
と、好菜が図書館で書いたメモをさしだします。

「なになに、安全な行動とは、身の危険がなく気にかかることがなく、心が落ち着いているような行動…ですか」
これが、まさに新しい安全の考え方ですね、と清水教授。

大きな体を、ドーンとイスに投げだします。
「このメモのなかには、あたらしい安全、つまり、リスクの概念がもりこまれています」
ふうー、と清水教授は大きく息をはきました。

そして、ふと、顔をあげると、
「リスクについておははなしするまえに、安全の語源についておはなししましょう。
ところで、コーヒーでもいかがですか?」
といい、なぜか拓人のほうをみつめます。

意味がわかった拓人は、
「はいはい、わかりました」
と、となりの小机にあるコーヒーメーカーでコーヒーをいれはじめました。

(清水教授、なんだか、大野教授と…かぶる)
好菜はメモ帳のつぎのページをひらきながら、はやい展開についていこうと必死でした。

「安全、つまりsafetyの語源はラテン語のsalvusです(Pp. 1)。
そしてそれがフランス語のsaufとなります。
saufは「無傷の状態」を意味しますが、salvusは「健康な」あるいは「安全な」という意味になります。
安全が“危険にさらされていないこと”という定義になったのは14世紀の後半であり、さらに“リスクから解放されていること”という行動を特徴づける形容詞が初めて記録に残されたのが1580年代のことになります*3」

行動ときいて大野教授がぴくりと動きます。

まだまだ、清水教授のはなしは続きそうです。
いや、まだはじまったばかりなのでした。

*2:「よくわかる!管理・監督者のための安全管理技術―管理と技術のココがポイント―基礎編 梅崎重夫、清水尚憲、濱島京子、平沼栄浩、高木元也、島田行恭、三平律雄著 日科技連
*3: 「Safety-I & Safety-II 安全マネジメントの過去と未来 第二版」(2017)エリック・ホリナゲル著、北村正晴/小松原明哲監訳 海文堂

2017年9月22日金曜日

第三話 行動分析学の大家、大野浩二教授の登場

ふたたび現在の亜場(あば)高校にもどります。

好菜(すきな)は、図書館で辞書にむかっていました。

「不安全、ってことは最初に“安全”の意味を調べなきゃ…」
安全を辞書でしらべると「危険がなく安心なこと」と書いてありました。
でも、やはり危険がなく安心なこと、が具体的にはわかりません。そもそも安心って?

そこで、安心をしらべると「気にかかることがなく心が落ち着いていること」と。

(つまり安全とは身の危険がなく気にかかることがなく、心が落ち着いていること、なのね)
好菜は、これらをメモすると、次に“行動”をしらべるべく辞書をめくりはじめました。

すると、頭上から
「じゃ、身の危険がなく気にかかることがなく、心が落ち着いているような行動じゃないものが不安全で、それをじぶんらが防ぐわけか…」
おどろいて顔をあげると、頭上に馬場拓人(ばばたくと)の顔が・・・。

「えっ、なに?突然。しかもひとのメモかってにのぞいて!」

拓人にひるむようすはありません。
「ごめん、ごめん、一生懸命しらべているみたいだったから、つい。
じぶんもS-SAS(エスサス)委員会のあと、気になっちゃって、今日あさいちで図書館で調べたんだけど、どうも、考え出したら、安全やら行動がなんだかわからなくなって・・・」

拓人はなおもつづけます。
「メモを見ていて気がついたんだけど、これって、はじめに不安全ってものがあるわけじゃなくて、じぶんたちが防いだ結果、その行動が不安全、ってことになるんじゃないかな?」
「な、なにいってんの?」

「つまりさ、じぶんらが防いだ結果、それが不安全な行動だったという解釈になるんじゃない?
もともと不安全な行動があるわけじゃなくてね。
うーん、じぶんで言っててもわかりにくいなあ」

(・・・これだから、あたまのいいやつの考えてることはわからない!)
だまっている好菜をちらりと見てから、拓人はたちあがり、

「そこでだ、原須(はらす)さん、今日時間があるんだったら、つきあってもらえないかな」
と好菜のメモを閉じてしまいました。

「えっ?なに?」

「じぶんのおじさん、行動分析学って学問の権威なんだよね。
自分も原須さんとおなじ、その辞書で調べたんだけど、よくわからなくなって。
昼休みもここに来てたんだけど、結局、S-SASのメンバーで今日図書館にあらわれたの原須さんだけだったよ」

「そうなんだ、私と拓人くんだけか・・・」
「ほかのメンバーは気にならないのかな。
おじさんの大学はここからそんなに離れていないから、いっしょに行ってよ」

ぺこりと頭を下げた拓人の態度は意外にまじめなもので、好菜はちょっとおどろきました。
(内申点ばかり気にするガリ勉くんかと思っていたけど、それほど悪い人ではないかもね)

行動分析学という耳なれない学問もそうですが、やはりS-SASのメンバーになったからには行動についても知りたいと思い、好菜は拓人と一緒に行くことにしました。

1時間後に好菜と拓人は私立波理洲(ばるす)大学四号館、文学部心理学科研究館に到着しました。

「…そういえば、なんで?満人(みつと)くんといっしょにくればよかったんじゃないの?
せっかくおじさんに会うんだから」
そういうと、

「いやいやいや、おじさんがおおさわぎするのが目にみえるから。
じぶんら秀才イケメンふたごのことが大好きなんだ、あのひと…。」
と拓人が苦笑いします。

すると、突然、背後からハイテンションな声が。

「おお!拓人!拓人じゃないか!」

両手で発泡スチロールのどんぶりをかかえた品のよさそうな紳士が足早に(といっても中のスープがこぼれないよう気をつけながら)近づいてきました。

「ついに結婚するのか!あいさつか?おじさんにあいさつか?
そのひとがおくさんなのか?
じゃあ、結婚式ではおじさん、はりきって、“かどたち音頭”を…」

「おじさん!!」
拓人が、そのおじさんなるひとの言葉をさえぎります。
「おじさん、結婚式って・・・あの、じぶんまだ16才なんですけど。
それに、かどたちなんとかって…なに?」

「かどたち音頭ってのはな…」

そこで、おじさん、はっとわれにかえります。
「おお、これは、大変失礼いたしました。わたくし、拓人のおじで大野浩二(おおのこうじ)ともうします」

どんぶりは平行に保ちつつ、ふかぶかと好菜におじぎをします。
まるで、どんぶりに祈りをささげるような奇妙なあいさつでした。

(あいさつだけじゃないけどね…奇妙なのは。いったい、このひとなにもの?
・・・って、おじさんだよね、拓人くんの。・・・大学の先生だよね)

好菜はあっけにとられて、おじぎをかえすこともことばを発することもできずにぼんやりとただただ立ちつくしたままでした。

数分後、3人は大野浩二教授の研究室にいました。
のびてしまうからどうぞ、というまでもなく、研究室につくとすぐ大野教授はコンソメスパにとびつきました。

「いや、とうぜん冗談だよ。拓人はまだ16だもんな。おじさん、そんなこと知っていたよ」
はっはっは、と笑いながら大野教授は、ズルズルとおいしそうにパスタをほおばっています。

(よほど空腹だったのね…、まあ、たしかにおいしそうだけどね)
とろみのあるコンソメスープに、コーンとなぜかわかめが入ったパスタは大野教授の好物のようです。
わき目もふらず一心に食べています。

そのため、来客用のコーヒーは不器用な手つきで、拓人みずからいれています。

「さて、それで、拓人が私をたずねてきた理由をうかがおうかな。
そのまえに、そちらのかわいらしいおじょうさんはどなたかな?」

おなかが満たされたのか、大野教授はさっきとはうってかわって、にっこりとおちついた声で聞いてきました。

好菜が自己紹介し、ことのしだいをはなしおえると、
「なるほど。行動とはなにかってね…」

すっと立ちあがると、大野教授は本棚から1冊のやや小さめの本を取り出しました。
表紙には「行動の応用‐すばらしい人間理解のために‐ 大野浩二著*1」とあります。

(すご!本をかいてるんだ!)

「行動には、明確な定義がありますよ」
大野教授は、よくとおる声で本のなかの一文を読みはじめました。
「行動とは、環境の中で生体がすること(Pp.9)、となってますね。
生体とは、生命を持つ独立した個体をさすことばで、有機体あるいは生活体ともよぶことがあります」

大野教授はなおも
「そして、私の専門である行動分析学における行動の定義には死人テストというものがあります」
と続けます。

「行動は生きている“生体”が示す変化であり、“死体”でも起こりうることは行動ではありません。
たとえば、“食べる”というのは死人にはできませんから行動です。
でも、“寝ている”というのは死人にもできますから、行動ではないんです。
これが、“寝る”という動作になると、行動ですけどね」

「ふうん、なるほどね…。そっちはすっばらしく明確にわかったな」

好菜も同感でした。
行動の意味がすーっと頭のなかにはいってきました。

(変わっているけど、とてもあたまの良い人だわ、大野教授って。教授だからとうぜんか)

「そっちはわかった、って?じゃ、もっとわからないことがあるってことか、拓人?」

「うん、さっきはなした不安全な行動、の不安全のほうなんだ」
拓人はさっきのセリフをくりかえします。
「不安全な行動を防ぐのか、不安全は防いだ結果なのか、それがわからないんだ」

すると、大野教授、いきなり大声で、
「拓人!さすが私のじまんの甥っこ!」
と、たちあがったのです。

「それは循環論というんだ。行動のダメな説明にもあるんだよ。
勉強しないのは性格が怠惰だからだ、じゃあ、なぜ怠惰かというと勉強しないからだ、
というわけだ」

「えっ、じゃあ、なぜ行動が不安全なのかというと、不安全に行動するからだ、ってこと?」

「そのとおり!」

「その説明は…つまり…」

「循環論…ダメってことだ」

好菜は、またまたふりだしに戻ったことを察して、どんよりとにごった超濃厚コーヒーをどんよりと口にいれました。


*1:本物の本を読みたい方は、こちらをご参照ください
「行動の基礎―豊かな人間理解のために(改訂版)」(2016).小野浩一著.培風館


2017年9月15日金曜日

第二話 S-SAS発足の話

今回は、S-SASが誕生したいきさつをおはなしします。
ハッピーな誕生秘話とはいえませんが、S-SASを語るうえでとくに重要なことですので、あえてとりあげました。

ときは6年前の5月中旬にさかのぼります。
そのころ亜場高校といえば、ちょっとかわった教育方針がおおいに話題になっていました。
「現場でいかせる若い才能をはぐくむ」と銘打って、産業界に速攻でおくりこめる人材の育成にのりだしていたのです。

もちろん、ふつうの進学校として大学受験対策も行っていましたが、やはり設備管理科、マシンセィフティー科、ビジネスマネジメント科、ビジネスリーダー養成科、ファッションリーダー科など、聞きなれない学科に、周囲の人々は興味津々でした。
ときおり、マスコミが取材に訪れたり、新聞に記事が掲載されたり、とにかく注目されていました。

そして、自由な校風で生徒ものびのびとしており、毎月開催される亜場高校の対外イベントも非常に個性あふれる楽しいものでした。
その評判は、じょじょに口コミでひろがり、開校3年後にはたいへんな数の訪問者が毎月おしよせるようになっていました。

「さあ、みなさん!寄っていってください!おしゃれなペンダントをつくりませんか?」
マシンセイフティー科の男子学生が、廊下で人に声をかけています。
木版をまるく切りとり、それを訪問者たちが色をつけてアクセサリーにする人気のブースでした。

その男子生徒のよびこみに何人かの小学生らしき女の子たちが気づきました。
ねえ、いってみようよ」
「私ね、このまえもかわいいペンダントつくったんだよ」
言いながら、工作機械室にはいっていきます。

なんとその中には、当時10才だった小学生の好菜がいました。
好菜には真理(まり)という姉がおり、亜場高校のマシンセイフティー科の2年生でした。
この日は、機械のデモンストレーションを行うということで、好菜たちを招待してくれていたのです。

部屋のなかにはすでに真理と観客が数人いて、実演をまちうけています。
好菜たちが入っていくと、背たけほどの透明なついたての向こうの男子学生が、20cm角の木版を手にしています。

「あ、尊(たかし)くんだ・・・。」
ついたての向こうにいるのは、真理の同級生であり、幼馴染でもある和渡(わと)尊でした。
どうやら、次のデモンストレーションは彼が行うようです。

「それでははじめましょうか。
まず、このボール盤という機械にホールソーという歯をつけて木版をまるくくりぬきます。
そのあと、みなさん好きな色をぬって、お持ちかえりしてください」
尊は、何度かやっているらしく、てなれたようすでボール盤の電源を入れました。

ウィーンと音がして、ホールソーを木版にあてます。
少しすると、木屑が出はじめました。
「よし、もうすぐだ」

そのときです!
「あっ!!」
「きゃあ!!」

まるくくりぬいたとたん、のこりの木版が見ていた人々のほうにふっとんでいきました。
木版はゴーン!と大きな音をたててついたてにあたり床におちました。
人には当たらず、おおごとにはならなかったのですが、ついたてが割れてしまい小学生の一人のうえにたおれていきました。

顔面蒼白で立ちつくす尊。

するとまたしても悲劇が!

尊のはめていた軍手が、ホールソーの歯にあたり、手が持っていかれます。
そう、ショックのあまり尊はあやまって歯にさわってしまったのです。

「あぶない、尊!軍手はずして!!!」
真理が大声をあげます。
「うわっ!やばっ!」
すんでのところで、尊は軍手を外すことができて、こちらも大事にはいたりませんでした。

じつは、好菜、このけがした女の子のとなりに立っていたのでした。
そして、さらに好菜のとなりに真理がいました。

好菜も、目の前でおきた事故に、ただびっくりして言葉なくたちつくすばかりでした。

女の子は、すぐさま医務室にはこばれ、手当てをうけました。
養護教諭である羽田伊津子(はたいつこ)がため息まじりに言います。

「かすり傷ができてしまったわね。
でも、これはラッキーなのよ。
一歩まちがえば、大きなけがにつながっていたかもしれなかったんだから」

最近ね、
と羽田はつづけます。
「重くはないんだけど、対外イベントの弊害というか、ケガしただの、あたまが痛いだの、気分が落ちこむなんていう生徒が増えているのよね。
みんなそれぞれ個別に頑張っているけど、限界かも・・・。
だれかが全体を見ていて、まとめていかないと

その後、亜場高校ではこの問題が大きく取りあげられました。
何人かの先生は、対外イベントを中止することを提案しました。

しかし、当時の亜場高校校長である布礼伊治也(ふれいちや)は、
「対外イベントを中止しても、根本的な解決にはならない。
ここは、生徒たちの自主性にまかせ、彼らに解決法をかんがえてもらおう」
といいました。

布礼校長は、工作機械室にいた和渡尊、原須真理、そして廊下で呼びこみをしていた角立宗作(つのだてそうさく)にはなしをきいていました。

「和渡くん、今回はたいへんこわい思いをしただろう?」
「はい。今でも思いだすとふるえます」
「今回の件で、なにか思うところはあるかね?
「はい、反省すべき点がたくさんあります」

そして、尊は、木版をクランプで固定しなかったこと、自分がなれていると油断したことを校長に話しました。

すると、真理が
「尊・・・いえ、和渡くん、もう一つ重大なことがあるの。
あのとき、和渡くんは軍手をはめていたわね。
ドリル類を使うときには、軍手ははめてはいけないのよ」

「えっ!そうだったのか、知らなかった・・・ではすまされないな」
尊は、しゅんと肩を落としてしまいました。

ふたたび、真理。
「でも、校長先生、和渡くんをかばうわけではないのですが、ドリル類使用の際は軍手を使用しないこと、というのはいままで授業で一回言われたきりです。
あとは実習でもとくに繰り返して教えてもらっていないので、忘れている人や重大さをわかっていない人はおおぜいいると思います」
まあ、2年だから実習もまだそれほど多くないんですけどね、とつけくわえた。

「なるほど・・・。
ひんぱんに対外イベントがあるから、機械を使ってお客さんに対応しなければならない。
でも、機械使用の実習をする前だから、十分な知識がないというわけですね。
これは、学校側にも反省すべき点がありますね」

「あの・・・」
今まで、ひとこともしゃべらず部屋のすみにいた角立宗作が小さな声で言います。
「あの透明なついたて、昨夜まではちがうものだったんです」

布礼校長は宗作のほうにからだをむけます。
「角立くん、どういうことかな?」

「前の日の夜、オレが見たときには、あのついたて、塩ビじゃなくて、ちゃんとポリカのやつだったんだ」

「え?」
真理はおどろきます。
「それ、ほんとうなの?」
「ほんとうだよ。オレ、ちゃんとさわってみたし、押して確認したから」

ここで、解説しましょう。
宗作が言っている、塩ビとは塩化ビニルの、ポリカとはポリカーボネート、つまりどちらも透明な素材をさしています。
通常、物があたるのを防ぐには、塩化ビニルではなく粘度の高いポリカーボネートを使用します。
塩ビだと今回のようにわれてしまう可能性があるからです。
同じ厚さであればポリカは塩ビに比べると変形量が大きいため、宗作のように押してみるとその違いがわかります。

「いったい、だれが?」
「それも調査しないといけませんね」
布礼校長は、少し深刻に言いました。

そのとき、3人の担任である江戸都留満(えどつるみ)が校長室に入ってきました。
「布礼校長、今、工作機械室の責任者に話を聞いてきたのですが、ここ最近ホールソーの歯の点検をしていなかったようなのです。
5月の連休があって、3週間点検がない状態でした」
「そうですか」

「でも、オレも使うまえにきちんと歯の状態を調べなかったから・・・」
と、ますますうなだれる尊・・・。

「さて、どうしましょう。
みなさん、このようなことが二度とおきないためにはどうしたらいいとおもいますか?」
布礼校長は3人にたずねます。

真理が、顔をあげてはっきりと答えます。
「生徒たちで、自主委員会を作って、安全を守るべきです。
今回のことは、いろいろな原因があっておきています。
誰かが全体的にみまわりをしないといけないと、ここ数日かんがえていました」

「ふうむ、そうですね。
では、臨時の生徒総会を開いて、それを提案してみてはいかがでしょうか」

というわけで、その数日後、生徒総会がひらかれ、満場一致でS-SASの発足にいたりました。
個々に訪問者対応をしている現状に、みんな限界を感じていたのです。

初代センターには、原須真理がえらばれました。
和渡尊、角立宗作もメンバーになったのはいうまでもありません。
学校のカリキュラムの問題もあり、生徒たちと連絡をはかるために江戸が顧問におちつきました。

そのころの好菜といえば、尊、宗作がたびたび自宅に訪れるのを興味深く見守っていました。
3人とも、どうすれば生徒たち、訪問者たちが安全に行動できるかについて日々はなしあっていたからです。

好菜は、漠然と
(お姉ちゃんってすごい!・・・かっこいい!)
と思っていました。


第五話 リスクとはなにか

「リスクとは…。」 清水教授は、今度は薄すぎるコーヒーマグを片手にホワイトボードに向かい立ちあがりました。 「安全か、危険かという考えかたとは少しちがって、どの程度までの危害の大きさを許容できるか、ということなんです。 いいですか、命を落とすような状態と...