清水教授は、今度は薄すぎるコーヒーマグを片手にホワイトボードに向かい立ちあがりました。
「安全か、危険かという考えかたとは少しちがって、どの程度までの危害の大きさを許容できるか、ということなんです。
いいですか、命を落とすような状態と指先に少しすり傷ができるようなものとが、どちらも同じ危険とひとくくりにしてしまうことには、無理がありますよね。」
清水教授はマグカップを持ったまま苦労してペンのキャップを取ると、ホワイトボードに大きくハートとだ円を描きました。
どうやら、命と指を表わしているようです。
そのとき、マグカップからコーヒーがどぼどぼと床に落ちました。
ちら、とそれを見たものの、なにごともなかったかのように話を続けます。
「そこで、その違いをリスクという概念でもって、重みづけをするわけです。」
ハートに100を、指に1を書きこみました。
「実は、リスクには0はありません。
ですから、この、100をかぎりなく許容できるレベルにするための試みを私たちは日夜行っているわけです。
したがって、安全とは、許容できないリスクのないこと、となりますね。」
また、ドカッと座ります。
「じゃ、安全というのは危険ではないことではない、ってことですね。」
と拓人。
「そして、指先の小さなけがのようなものは許容できるものであり、命を落とすような重大なものは許容できないものって分けることが、リスクの考えかたってことですか?」
「まったくそのとおりです。君はなかなか優秀ですね。」
清水教授にほめられた拓人は、少し照れているようです。
好菜はメモを取り続けています。
「じゃあ、どうやってリスクを許容できるレベルまで低減するのでしょうか。
私の専門分野である機械安全の分野では、リスクを低減するには3つの方法があって、優先順位が決まっています。
まず、最初にすべきことは本質安全です。
たとえば、机のかどがとがっていると、さわったときにけがをする可能性がありますよね。」
「そんな時、君だったらどうする?」
と、清水教授が拓人にたずねます。
拓人は答えます。
「かどにカバーをつければいいんですよ。」
「ぶっぶー!」
清水教授、大きな声で言いました。
3人は再び、びくっ!とします。
「カバーをつけるというのは、実は本質安全ではないんです。」
大きく息を吸い、
「正解は、本質安全的正解は、机のかどを丸くつくる、でしたー!」
好菜、
「そっかあ!丸くしちゃえば、カバーもいらないですもんね。」
「そのとおり。
では、机が金属だったりして、けずれない場合はどうすればいい?」
清水教授、ペンで大野教授をさします。
「えっ!・・・わたし?」
まさか、指されるなんて、と大野教授とまどいます。
かろうじて、
「そうだなあ…えっと、机を買いかえる、とか。
そりゃ、ないか、ははは。」
「そういう場合は、机のかどに人が近づけないようにすればいいのですよ。
つまり、ここでカバーが出てくるわけです。
これが二番目のリスク低減方策、安全防護です。」
「つぎっ!
では、カバーもできなかったり、カバーがすりへってまたとがったところがでてきたり、カバーがはずれやすかったりした場合はどうだろう?
はい、そこ!」
清水教授は、興奮するとやや粗暴になるようです。
好菜がおずおずと答えます。
「カバーをもっといいものにするとか、カバーを一定期間で交換するとか、かな。」
「はい、半分あたり。リスク低減方策では、ベストな方法がとられていることが前提だからもっといいカバーがあればその、カバーを適用することになります。
一定期間で交換というのは正解。
いつ交換すればいいのかを、カバーをつくった企業がユーザー、すなわち机を使うがわに教えればいい。
あるいは、カバーの近くに“3か月で交換すること”とシールを貼っておけばいい。
これが、三番目、情報の提供であります!
この3つは、スリーステップメソッドといわれるものです。
コーヒーをぐびりと飲みます。
「なので、設備的な対策をなんら取らずに、危ないところをマニュアルに全部書いたからといってそれを、ユーザーに渡しただけ、っていうのはルール違反なんだ!」
「機械安全のベースとなる考え方は、人はミスをする、機械は故障する、というのが前提だ。
だから、人にたよる安全対策である情報提供が最後!」
みんな、納得して大きくうなずいています。
清水教授、そんなようすをぐるりと見まわすと、ちょっと落ち着いたようで、静かに話だします。
「人はね、まちがったり、わざとだったり、いろいろですが、まあ、ミスするいきものなんですよ。
ですからね、危険源にちかづかないようにする、ちかづいたら機械自体がとまる、というふうに機械側で制御するようにしてやれば、より安全な状態に近づくわけです。」
「なるほど、環境側から人の行動をかえるわけですね。
行動分析学とまったく同じ考え方です。」
ここで、大野教授が発言します。
「人の行動を変える?
いやいや、人の行動をかえるなんてむりですよ。
だから、われわれは機械に安全装置をとりつけて、人が危険側に行動したときに機械自体をとめてしまうのです。」
「いや、人の行動は変えられますよ。
行動をかえるというより、環境をかえることによって結果的に行動がかわるんですけどね。」
と、大野教授。
「いやいやいや、大野先生、人なんて信用ならない。
だから、われわれ機械安全の専門家はハード面、つまり機械での制御を徹底しようと苦労しているんですよ。」
「ですからね、機械を使って作業するその人自身の行動が改善されれば、さらに作業現場が安全なものになるのではないかと思うしだいでして。」
「そりゃ、改善されたかどうか確かめるすべがあれば、の話ですよね。
今のところ、そのような手段がないので、われわれは機械の安全装置にたよるしかないんですよ、残念なことに。」
「え?改善されたかどうか、確かめる方法がないとおっしゃいますか?」
「大野先生、ひょっとしてそんな方法があるとおっしゃっているのでしょうか。」
「ええ、おっしゃっています。」
「どうやって?どうやって確かめるんです?」
清水教授は、大きな体を前にずいっとのりだします。
好菜は、少しあせります。
(ケンカ、しているわけじゃないよね?
お二人とも少々興奮してるけど、なんだかとても楽しそうだし…)
大野教授、こほん、と咳ばらいします。
「安全装置を導入する前と導入したあとの安全行動と不安全行動を数えればいいんです。」
清水教授は、大野教授を穴のあくほど見つめています。
そして、また、どぼどぼとコーヒーを床にこぼします。
「行動…を、数える?」
大野教授、にっこり笑ってくりかえします。
「ええ、行動を数えるんです。
行動は、数えることができるんです。」
コーヒーはどぼどぼとこぼれっぱなしです。
ニコニコしている大野教授を、じっと見つめる清水教授。
さて、どうなることやら…。
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