馬場拓人(ばば・たくと)は、コーヒーをぐびぐびと飲みほしました(にがくないのか???)
「拓人!いい案があるぞ!」
またしても、大野浩二(おおの・こうじ)教授、ひざをたたいてたちあがりました。
「波理洲(ばりす)大には工学部もあって、そこに機械システム安全研究科がある。
そこの教授なら説明してくれるかもしれない。循環論じゃない不安全行動を!」
「それだ!おじさん、そこにつれていって。
知り合いの教授から話を聞くことができるかな?」
「まかせなさい!よし、さっそくアポとってみよう」
大野教授、さっそうと電話にむかいます。
ところが電話がはじまってみると・・・。
しりあいがいると豪語していた大野教授ですが、どうも実際はちがうみたいです。
ごもごもと小さい声で、はじめまして、という声や、自己紹介などが聞こえてきました。
好菜(すきな)も拓人も、そこはそしらぬふりをよそおって、なりゆきを見守っています。
ついに、電話をおいた大野教授、うってかわって自信満々のようすです。
「私の親友、清水尚憲(しみず・なおのり)教授がみなさんに会っていいとおっしゃっている。
お時間は大丈夫かね?」
「も、もちろんです、大野教授」
好菜、ためらわず答えます。
拓人もつっこみはしないようです。
…S?SAS(えす・さす)のためだ。
3人は波理洲大工学部機械システム安全研究科をめざして歩きだしました。
めざして歩きだす、なんてずいぶんおおげさとおっしゃるかもしれませんが、おなじ大学とはいえ、ひろい敷地が必要な工学部キャンパスは、大野教授のいるメインキャンパスから歩いて15分ほどかかります。
機械システム安全棟は、工学部キャンパスの中央部にどーんとそびえていました。
ドアをあけると、すぐ左に6名ほどの教員の所在表があり清水教授は白ふだです。
(ってことは、赤ふだは不在なのね)
右はトイレで、正面にもうひとつドアがありました。
「ここみたいです、火気責任者に清水教授のおなまえがありますから」
(それにしても大きなドアだな。鉄扉だし…)
好菜がドアノブに手をのばしたまさにその時、目のまえのドアがいきおいよくひらいて、大男がとびだしてきました。
あやうくドアにぶつかりそうになった好菜が2歩ほどうしろにとびのくと、おもいきり拓人の足をふんでしまいました。
「いてっ!」
その声に、大男が気づき、立ちどまります。
「あっ!すいません!大丈夫ですか?」
そういいながらも、大男はふたたび足早にその場をさり、トイレにかけこんでいきました。
(え?いまのひと、清水教授?)
あっけにとられた3人は、そこでかたまります。
約1分後、男は鼻歌まじりでトイレからでてきました。
そして、3人がまだそこにいるのを不思議そうにながめ、ふたたび鉄扉のむこうに消えようとドアをあけます。
「あのっ!清水教授でいらっしゃいますか?」
好菜がおもいきって声をかけると、
「はい、そうですが?」
と、ニコニコと笑顔になります。
すると、大野教授が
「さきほど、お電話でお話いたしました、心理学科の大野でございます」
というと、
ようやく思いいたったようすで清水教授は背すじをのばします。
「あっ、これはこれは。失礼しました。大野先生、さきほどからお待ちしておりました」
がっ、大きな体を90度曲げ、体育会系のおじぎであいさつします。
「お待ちして、って」と、背後で拓人の小声のつっこみがきこえましたが、かまわず好菜は、
「おいそがしいところ、すいません。お話をすこしうかがってもよろしいでしょうか」
と、きりだしました。
清水教授は、かわらずニコニコと、
「もちろんです!そのためお待ちしていたんですから。
あなたがたが、ばば高校の生徒さんたちですか?」
さらにつっこもうとする拓人のわき腹をひじでどつきながら、
「はい!私たちが亜場(あば)高校2年生の、原須好菜(はらす・すきな)と、こちらが馬場拓人です」
二人で頭をさげます。
「亜場高校の馬場さん、ですか」
なにがおかしいのかくすくすわらいながら、ドアをあけ、清水教授は手まねきします。
「どうぞどうぞ、こちらへ」
部屋にはいった一同、てっきり研究室だとおもっていたそこが広大な空間であることにおどろきました。
大きな鉄の柱にかこまれ、10メートル以上あるかとおもわれる高さに天井走行クレーンがさがっています。
さらに8メートルほどの高さには四面にぐるりと手すりのついた作業現場によくある通路、キャットウォークが取りつけてありました。
床面も、奥行き幅ともに10メートル以上はあるようです。
そこに、電動式のミキサー、スライサー、プレス機などが雑然と配置され、おどろいたことに左奥には、介護用機器とおもわれる電動式風呂もあります。
(すっごーい!)
おどろく3人をあとに、清水教授は部屋の3分の1ほどすすんだところで、左に直角にまがり、すたすたと歩いていきます。
そしてさらに左に直角にまがり、つきあたりのドアをあけました。
ニコニコと3人をまねきます。
「どうぞどうぞ!」
はいると、そこがどうやら清水教授の研究室のようです。
奥が、パソコンなどがおいてある作業スペースのようですが、白板が視界をさえぎり、みることはできません。
そしてなぜか、研究室内にもホイストクレーンがさがっていました。
白板手前のテーブルに3人をすわらせ、清水教授は白板に背をむけてこしかけました。
あいかわらずニコニコしています。
「私に聞きたいこととは、なんでしょうか」
好菜が先刻はなした内容を、要領よく大野教授がかいつまんではなしだします。
「この子たち、高校の自主活動委員会で生徒の不安全な行動を防ぐ活動をはじめるらしいのですが、そもそも不安全行動、いやそのまえに安全とはなんなのかを…」
「安全とは!」
と、突然、大声をはなち、清水教授がガタン!と立ちあがりました。
びくっ!とする3人。
白板に向かうとシュポン、とペンのキャップを取ると、
比較的きたない字で、安全、と書きなぐりました。
「かつて“安全”とは、危険源を作業スペースからあらいだし、それ以外が安全と、いわれていました」
しかしね、
と清水教授はつづけます。
「危険源を100パーセント洗いだすなんてむりなんです。
でも、洗いだした危険源以外を安全とすると、洗いだしきれなかった危険源も安全だということになってしまうのです」
この、私の著書*2を読んでいただくと…、と結構なサイズの本を二冊かたかけポーチの中から取り出しました。
(えっ!いつも持ち歩いている?…そして話が止まらない)
「ちょっと待ってください。これを…」
と、好菜が図書館で書いたメモをさしだします。
「なになに、安全な行動とは、身の危険がなく気にかかることがなく、心が落ち着いているような行動…ですか」
これが、まさに新しい安全の考え方ですね、と清水教授。
大きな体を、ドーンとイスに投げだします。
「このメモのなかには、あたらしい安全、つまり、リスクの概念がもりこまれています」
ふうー、と清水教授は大きく息をはきました。
そして、ふと、顔をあげると、
「リスクについておははなしするまえに、安全の語源についておはなししましょう。
ところで、コーヒーでもいかがですか?」
といい、なぜか拓人のほうをみつめます。
意味がわかった拓人は、
「はいはい、わかりました」
と、となりの小机にあるコーヒーメーカーでコーヒーをいれはじめました。
(清水教授、なんだか、大野教授と…かぶる)
好菜はメモ帳のつぎのページをひらきながら、はやい展開についていこうと必死でした。
「安全、つまりsafetyの語源はラテン語のsalvusです(Pp. 1)。
そしてそれがフランス語のsaufとなります。
saufは「無傷の状態」を意味しますが、salvusは「健康な」あるいは「安全な」という意味になります。
安全が“危険にさらされていないこと”という定義になったのは14世紀の後半であり、さらに“リスクから解放されていること”という行動を特徴づける形容詞が初めて記録に残されたのが1580年代のことになります*3」
行動ときいて大野教授がぴくりと動きます。
まだまだ、清水教授のはなしは続きそうです。
いや、まだはじまったばかりなのでした。
*2:「よくわかる!管理・監督者のための安全管理技術―管理と技術のココがポイント―基礎編 梅崎重夫、清水尚憲、濱島京子、平沼栄浩、高木元也、島田行恭、三平律雄著 日科技連
*3: 「Safety-I & Safety-II 安全マネジメントの過去と未来 第二版」(2017)エリック・ホリナゲル著、北村正晴/小松原明哲監訳 海文堂
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